お札を返しに松尾大社に行きました。
長寿と蘇生のパワースポット、よみがえりの水が湧く「亀の井」のそばで撮影

昔、珍しい亀が現れたという、
マイナスイオン満載の「滝御前」

マイナスイオンは中国語で“负离子 fùlízǐ”
マイナスなので“负”、そのものですね。
「松尾皇太神宮紀」によりますと
「松尾の大神さまは亀に乗って松尾山に鎮座され、乗ってこられた亀は、嵯峨の亀山となった」そうです。
駐車場の看板にも「亀」

像乌龟一样慢慢地 Xiàng wūguī yíyàng mànman di
像鲤鱼一样轻快地 Xiàng lǐyú yíyàng qīngkuài di
今の厳しい時期、運転のみならず何事も、
焦らず、けれども早く、乗り切れますように。



こうして、今は機械であっという間にできますが、昔は大変だったそうで、
以下は中国での話です。
在上世纪70年代前,山区的农人们吃的米,都是靠石碾碾出来的。
Zài shàng shìjì 70 niándài qián,shānqū de nóngrén mén chī de mǐ,dōu shì kào shí niǎn nian chūlái de
1970年代以前、山間地域の農民たちが食べていた米は、すべて石臼でひいていました。
上世纪60年代粮食都是由生产队统一按时发放的,碾米活儿就比较集中,农户为抢碾子,常常要起三更睡半夜,否则就可能要饿几天肚皮。
Shàng shìjì 60 niándài liángshí dōu shì yóu shēngchǎnduì tǒngyī ànshí fāfàng de,niǎn mǐ huór jiù bǐjiào jízhōng,nónghù wèi qiǎng Niǎnzi,chángcháng yào qǐ sāngēng shuì bànyè,fǒuzé jiù kěnéng yào è jǐ tiān dùpí.
1960年代の食糧はすべて生産隊が一括して適時に配給していました。精米作業が集中するので、農家は臼の取り合いで、しばしば真夜中に起き出し、そうでなければ数日腹を空かせることになりました。
几十年过去了,碾子早随着科技的发展隐入历史的深处,那碾米的情景也只有在梦中重现,碾米的苦与甘现在的孩子是无法体会的。
Jǐ shí nián guòqù le,Niǎnzi zǎo suízhe kējì de fāzhǎn yǐn rù lìshǐ de shēnchù,nà niǎn mǐ de qíngjǐng yě zhǐyǒu zài mèng zhōng chóngxiàn,niǎn mǐ de kǔ yǔ gān xiànzài de háizi shì wúfǎ tǐhuì de.
数十年が過ぎ、臼はもはや科学技術の発展によって歴史の深いところに隠れてしまい、あの精米の情景も夢で再現されるだけです。精米の苦しみや楽しさは今の子どもには理解できません。
他们吃着亮晶晶的机器米,根本不知道米是怎么来的,也不怎么懂得粮食的艰难。
Tāmen chī zhe liàngjīngjīng de jīqì mǐ,gēnběn bù zhīdào mǐ shì zěnme lái de,yě bù zěnme dǒng de liángshí de jiānnán.
子供たちはきらきら輝く機械米を食べ、米がどのように出来るのかよく分かりませんし、食糧の苦難もたいして理解していません。
所以我常对他们讲起少时碾米的故事,告诉他们记住古人的教诲:‟谁知盘中餐,粒粒皆辛苦”。
Suǒyǐ wǒ cháng duì tāmen jiǎng qǐ shǎoshí niǎn mǐ de gùshi,gàosu tāmen jìzhù gǔrén de jiàohuì:‟ Shéi zhī pán zhōngcān,lì lì jiē xīn kǔ”
ですから、私は幼い時の精米のことを子供たちにしょっちゅう語り、昔の人の教訓を教えるのです:「誰か知らん 盤中の餐、 粒粒 皆辛苦なるを」(誰が分かろうか、茶碗の中のご飯の一粒一粒が、皆、こうした苦労の結実であることを)
中国語出典:「百度知道」
日本語訳は私。
今の時代、石臼で精米する方が難しいですよね〜。石臼無い。あってもよう使かいません。力ない。ひいてくれる牛もいませんし。
コインを入れてすぐできる「きらきら輝やく機械米」で、一粒一粒大切にいただきます。
中国のテレビを見ていると、「健康早班車」という番組で、ダイエットについて紹介していました。
少し紹介すると、
司会者:
减肥是女人需要一辈子都要做的事情,至少我已经斗争了半辈子。
Jiǎnféi shì nǚrén xūyào yíbèizi dōu yào zuò de shìqíng,zhìshǎo wǒ yǐjīng dòuzhēng le bànbèizi.
ダイエットは女性が一生やるべきことで、少なくとも私は半生、頑張ってきました。
私の独り言:
そうだ〜そうだ〜!
テロップ:
针灸、拔火罐、抽脂都有作用吗?
Zhēnjiǔ、báhuǒguàn、chōuzhī dōu yǒu zuòyòng ma.
鍼灸、抜火罐(関節炎・肺炎・神経痛などの治療法の一種;小さな円筒形の入れ物の中に火をつけ、その口を皮膚に伏せて局部に鬱血を起こさせて治療する)、脂肪吸引、効き目がありますか?
専門家:
现在有些减肥的方法五花八门很多样,全世界真正做到减肥的,全世界所有专家公认的也只有运动减肥。
很多方法,它不是方法本身有效。
比如说你去做针灸了,然后扎针你很痛苦,又交了一大笔钱,还得每个礼拜哪天哪天去进行疗程。
你又花钱又费的事。
又扎了针了,又唉了疼,
完了人家会告诉你,‟你为什么吃那么多呢,你扎完针就不可能吃了”,或者真的吃得少。
你可能受暗示或者受压迫。
完了你就不吃了。
实际减肥的不是针灸本身,而是你不吃东西导致的。
要約:
現在、様々なダイエット法がありますが、世界的に本当にダイエットをすることができて、世界中の全ての専門家が公認するのは運動ダイエットだけです。
多くの方法、それは方法そのものに効果はありません。
例えば、鍼灸に行きました。針を刺して、とてもつらいです。また、大金を払って、治療のために毎週、いつ、いつ、何日に行かなければならないし、
お金も使うし、面倒です。
針を刺されて、痛いです。
終わって、「あなたはどうしてそんなにたくさん食べるのですか、でも針を刺したからもう食べられなくなりましたよ」と言われ、本当に食べるのが少なくなったりします。
暗示を受けたから、あるいはプレッシャーをかけられたからかもしれません。
そして、食べなくなります。
実際のダイエットは鍼灸そのものではなく、あなたが食べ物を食べないために生じたものなのです。

まあ、どのような方法でも、結果的にダイエットできればいいですよね。
この連休期間、買い物に行く以外は、どこにも行かなかったので、昨日の連休最終日は、買い物から足を延ばして等持院に行ってきました。
いつものスーパーに買い物に出かけた途中で、急に思い立ったのです。
なので、私は「ノーメイク」「ぞうり」、主人も「ぞうり」しかも靴下も履かずの裸足で、ふらっと出かけました。

この等持院は、嵐電(京福電鉄)の北野白梅町の駅から1つ西の「等持院駅」から歩いて約10分のところにあります。
この日は小雨でもあり午後でもあったので、参拝客はとても少なく、私たちが方丈とお庭を拝観した時は、貸し切り状態でした。
ここならコロナ感染の危険は全くないなと、存分に季節の花であるツツジや菖蒲などを楽しむことができました。
説明書によりますと、等持院は西暦1341年、足利尊氏が創建しました。
後に足利将軍歴代の菩提所となり、「霊光院」には足利歴代の将軍像が安置されています。
この「霊光院」に入るときに、少し怖い感じがしたので、主人の腕を掴みながら、「こんにちは、こんにちは、失礼します」と何回もお辞儀をしながら入っていきました。
まず足利尊氏が日頃「念持仏」として信仰していたと言う「おじぞうさま」に手を合わせ、初代からずっと15代の足利将軍像を手を合わせながら拝観しました。
そのうち、怖さもなくなってきて、「ああ、この将軍の時代は・・・」と思い出しながらそれぞれの像に見入りました。
初代の足利尊氏は、戦前までは逆賊扱いだったそうですが、後醍醐天皇から「尊」の字を賜るほどで、とても器量の大きい人物だったとのこと。
お庭の中にある尊氏のお墓の前で手を合わし、680年前の人物像に思いを馳せました。
心字池がある庭園は無窓国師が作ったと伝えられる、本当に心が落ち着くお庭でした。

この数日ずっと家にいて気分が落ち込みがちでしたが、境内を一周した後は、とても清々しくすっきりしました。
連休もあっという間に最終日になりました。
家にいる時間が長いと、ついついビールを飲む量が増えてしまいます。
おつまみにも手が出てしまいます。
よく食べるのが柿ピー。
コブクロになっていて食べ切りサイズでちょうどの量。
そのコブクロの裏に書いてあったのが、
「弘法の筆は何を誤ったのか?」

写真では見にくいので、何が書いてあるかといいますと、
弘法も筆の誤りは有名なことわざ。
いったい何を誤ったのか?
それは弘法大師が平安京の応天門に設置する額に文字を書いたときに
「応」の字の「心」にひとつ点を入れ忘れてしまったそう。
額を設置する時に気づいた弘法大師はすぐさま額に向かって筆を投げて
点をひとつつ書き加えたのだと言われています。
これは、今の平安神宮の「応天門」
上の方の屋根の下の中央に額がかかっています。

弘法大師は書道の達人と言われていますが、筆を投げてひとつ点を足してうまく「心」という字にするのですから
すごい命中率!
ダーツの達人ですね。
しかも、「誤った」のに、最終的には問題なし。
さすが、弘法大師様!
ビールを飲み、柿ピーを食べながら、そんなことを思う休日です。
「弘法も筆の誤り」、中国語で辞書に載っているのは、
‟智者千虑,必有一失。Zhìzhě qiān lǜ,bì yǒu yì shī”です。
この言葉の中国語の解釈は
‟聪明的人,对问题虽久经考虑,也有可能出差错。”
訳文:聡明な人が長い間問題について考えても、まちがいを犯すこともあり得る
「弘法も筆の誤り」とニュアンスが異なりますが、
「デキル」人も誤ることもある、ということは同じですね。
じゃあ、私のような凡人は誤りまくってもダイジョウブだ〜