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2021/12/14

いろいろな「定食」がありますね。

 

定食就是套餐的意思。

Dìng shí jiùshì tàocān de yìsi.



これは先日、伏見稲荷大社の近くで食べた唐揚げ定食

 

稲荷大社にちなんでか、うどんに「おあげ」が入っていました。(写真では見えにくいですが)



これは実は家で作ったお昼ご飯↓

 

定食風になりました。



定食是日本餐进餐形式的一种,即日本份饭。

Dìng shí shì rìběncān jìncān xíngshì de yì zhǒng,jí Rìběn fèn fàn.



通常是午饭菜时用此菜单。

Tōngcháng shì wǔfàn cài shí yòng cǐ càidān.



其主要特点是简单,经济,客人来到餐厅就可以吃到定食,汤,菜放在一个盘内托出。

Qí zhǔyào tèdiǎn shì jiǎndān,jīngjì,kèrén láidào cāntīng jiù kěyǐ chī dào dìng shí,tāng,cài fàngzài yí ge pán nèi tuō chū.



訳文:

 

定食とは、日本の食事の形、つまり日本のセットご飯のことです。

 

通常、ランチに食べられます。 

 

シンプルで経済的なことが主な特徴で、お客さんはお店に来ると、スープ、おかずがひとつのお盆に載って出てくる定食が食べられます。



你喜欢吃的定食是什么?

 

あなたの好きな定食は何ですか?



2021/12/13

京都市中央卸売市場の一角にあるお寿司屋さん

 

さすがネタがとても新鮮です

 

三種類のマグロが載った鉄火丼

鉄火丼の「鉄火」は、赤く燃えた鉄という意味だそうです。

 

その燃えるような赤い身は、口に入れた途端に溶けるほどの柔らかさ。

 

卸売市場のお寿司屋さんだけあって鮮度感バツグン

 

みずみずしさにうっとり

 

また赤と白との縞模様になったマグロは、程よい脂でうま味がしっかり

 

しかも特盛で量はどっさり

 

もうお腹いっぱい

 

「鉄火丼」は中国語で‟生金枪鱼片盖饭 shēng jīnqiāngyú piàn gàifàn”

 

‟金枪鱼”は、マグロ


‟盖饭”は、ご飯の上に肉や野菜などをのせた食事.どんぶりもののことです。

湯呑には様々なお寿司の絵

 

今度はここに描いてあるの全部、食べたいな〜


お腹いっぱいになる前に「破産」かも・・・・・

2021/12/12

京都長岡京「勝竜寺城公園」を引き続き紹介します。





1582年、本能寺の変後、明智光秀と羽柴秀吉が決戦に臨んだ天下分け目の「山崎勝竜寺城の合戦」では、この一帯が戦場となりました。

 

戦局は短時間で決し、敗れた光秀は勝龍寺城へ逃げ込み、最後の夜を過ごしています。

 

(勝竜寺城公園のパンフレットより)



光秀は再起を図るため、落ち延びましたが、その途中で落命しました。

 

命を落とした竹藪は今の山科区小栗栖になるそうで、マップで調べてみると勝竜寺城から徒歩2時間半のところです。享年55歳。

 

 

しかしながら、こんな話もあります。

 

江户中期明和年间(1764-1772)神泽贞干所著的随笔《翁草》中有关于光秀的一段奇异的描述。

 

死在小栗栖的是光秀的影武者,光秀本人逃到了美浓山县郡美山中洞。

 

这个传说看似荒诞不经,不过,主要一点是光秀没有死在山崎合战中。

 

确实,仔细分析山崎合战的过程、逃离胜龙寺城、然后在小栗栖受山民袭击这一连串的变化,能发现很多难解之处,

 

因此生出了光秀生存说。

 

事实上,比睿山有石灯笼上刻“庆长二十年二月十七日,奉寄进,愿主光秀”。

 

庆长二十年(1615),正是大坂冬之阵结束,大坂城壕被填,丰臣家濒临灭亡的时候,自本能寺之变发生已二十三年。

 

这个“光秀”是活下来的明智光秀吗?

 

丰臣家灭亡,德川一统天下的时代来了——光秀认识到这一点,就大胆地以“光秀”之名供奉石灯笼,向世人宣布他还活着。




訳文:

 

江戸時代中期(1764〜1772年)に神沢貞観が書いた随筆「翁草」には、光秀に関する不思議な記述があります。

 

小栗栖で死んだのは光秀の影武者であり、光秀自身は美濃山の郡山中村の洞穴に逃げ込んだのです。

 

この伝説は荒唐無稽に思えますが、重要な点は山崎の戦いで光秀は死んでいないということです。

 

確かに、山崎の戦い、勝竜寺城からの脱出、そして小栗栖での山人の襲撃という経過を詳細に分析すると、

 

光秀生存説を生み出す不可解な点がいくつも出てくるのです。

 

実際、比叡山には「慶長20年2月17日、願主光秀、寄進」と刻まれた石灯籠があります。

 

慶長20年(1615年)、大坂冬の陣が終わって大坂城のお堀が埋められ、

 

豊臣家が滅亡の危機に瀕していた時、本能寺の変から23年経っていました。

 

この「光秀」は生き残った明智光秀なのでしょうか?

 

豊臣家が滅び、徳川が天下統一する時代が来ました。

 

それを知った光秀は、思い切って「光秀」の名で石灯籠を献上し、

 

自分がまだ生きていることを世間に知らせたのでした。



へえ〜〜そんな話もあるのですね

 

それからこれはお庭にある細川忠興と玉(ガラシャ)の像



明智光秀の娘、玉が勝竜寺城の細川忠興のもとへ輿入れしたエピソード再現する「長岡京ガラシャ祭」は毎年11月第2日曜日に催されます。



また、これは庭にある「ガラシャおもかげの水」という立て看板


「地下水100%の水道水です。ご自由にお飲みください。」と書いてありますが、このコロナの時期で飲用禁止になっていました。



建物の2階は「歴史ミュージアム」になっていて、

 

甲冑の展示や、勝竜寺にゆかりの深い明智家と細川家の人々の生涯が紹介されています。

 

一番奥にある大きなモニターで流されているビデオはとても分かりやすかったです。

 

とても見る価値のあるお城公園です。



2021/12/11

京都、長岡京の「勝竜寺城公園」




ここには戦国時代の石垣が残っています。



そもそも石垣って??

 

室町时代后期,石垣作为土垒的补强设施又变得逐渐普及起来。

Shìdīng shídài hòuqī,Shíyuán zuòwéi tǔlěi de bǔ qiáng shèshī yòu biànděi zhújiàn pǔjí qǐlái.



城堡石垣足够牢固,既结实耐用又美观得体。

Chéngbǎo shíyuán zúgòu láogù,jì jiēshi nàiyòng yòu měiguān détǐ.



訳文:

 

室町時代後期になると、石垣は土塁の補強として次第に普及していきます。

 

城の石垣は、耐久性と美観を兼ね備えたとても丈夫なものでした。



このような立て看板がありました。



石垣にも積み方がいろいろです。

 

この看板に、このうしろの石垣は「野面積」と書いてあります。

 

「野(の)」+「面積(めんせき)」??

 

野原の面積のこと???いえ、そうではなく

 

「野面積」は、「のづらづみ」と読みますね。



​“野面积”,顾名思义就是从野外捡回来石头,几乎不做任何加工,直接用作积石的情况。

 

因此,野面积石垣的特点就是,石块基本上都没有什么棱角,还有可能出现浑圆的石块,石块和石块之间会有很大的缝隙。



訳文:

「野面積」とは、その名の通り、野外から石を拾い、ほとんど加工せずにそのまま石材として使用している状況を指します。

 

 そのため、野面積の石垣は、基本的に角のない石で、真ん丸い石もあり得ますが、石と石の間には大きな隙間があるのが特徴的です。



解説:

 

顾名思义[gù míng sī yì]   〈成〉名称を見てその実質を判断する、文字どおり.

 

浑圆[húnyuán]   真ん丸い.球形のものにのみ用います。絵に描いた丸は浑圆とは言いませんね。



このお城は、本能寺の変の後、「山崎合戦」舞台ともなったところで、

 

明智光秀は最後の夜をここで過ごしたということです。

 

見たところ何の変哲もない石垣ですが、戦国時代に想いをはせると、また面白いです。



2021/12/10

京都屈指の紅葉名所 「光明寺」

 

「もみじ参道」と呼ばれる参道では、散りもみじの絨毯が敷かれたようでした。



12月5日までの特別拝観を過ぎたからか、それほど人も多くなく、ゆっくりできました。



净土宗由法然上人创立于1175年,这地区叫“粟生广谷”,法然上人在这里第一次向世人传授‟南无阿弥陀佛”的佛教教义。

Jìngtǔ zōng yóu fǎ rán shàng rén chuànglì yú 1175 nián,zhè dìqū jiào “Sù shēng guǎng gǔ”,fǎ rán shàng rén zài zhèli dìyī cì xiàng shìrén chuánshòu ‟ nāmóēmítuófó” de Fójiào jiàoyì.



訳文:

 

浄土宗は1175年に法然上人によって開かれました。ここは粟生広谷(あおひろだに)と呼ばれる地域で、法然上人はここで初めて「南無阿弥陀仏」の仏教教義を世に伝えました。



阿弥陀堂に安置されている阿弥陀如来像は高さが2m近くあり、

 

然上人のお弟子さんが、現在の滋賀県の堅田(かたた)の浮御堂(うきみどう)から

 

背負ってきたという言い伝えがあるそうです。

 

堅田から光明寺まで約36キロメートル。

 

現在、車だと一時間足らずですが、そんな大きな仏さまをよく背負ってきたものですね。



また境内のお堂の前に、とりわけきれいに色づいたもみじの木が一本ありました。






木の下に石柱で囲まれたところがあり、よく見ると「石棺」です。

 

どうしてここに?誰の?偉いお坊さんだろうなと思いながら、手を合わせたのですが、

 

帰ってから調べてみると、法然上人の石棺と知り、おどろきました。

 

初めて訪れた光明寺、見どころ満載でした。


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