元宵節に食べるもの
元宵を食べる
元宵節は正月15日のことで、中国では古くから「元宵」を食べていました。
宋の時代、明州(現在の浙江省寧波市)で目新しい食べ物が生まれ、それは最初「浮元子」、後に「元宵」と呼ばれ、商売人の間では麗しく「元宝」とも呼ばれていました。
元宵は砂糖、バラ、ゴマ、あずき餡、豆板醤、黄耆、肉桂、クルミ、落花生の実、ナツメなどをあんにして、もち米粉で包んで丸い形にしたもので、肉をいれたり野菜のみの具材もあり、様々な風味がありました。
これをスープに入れて煮たり、揚げたり、蒸したりして食し、これには(別れていた親族が)団らんするという意味があります。
陝西省では、元宵を包むのではなく、もち米粉の中で「転がして」作り、茹でたり揚げたりして作り、あつあつほかほかの丸々です。
吃元宵
正月十五吃元宵,“元宵”作为食品,在中国也由来已久。
宋代,当时明州(现为浙江省宁波市)兴起吃一种新奇的食品。
这种食品,最早叫“ 浮元子”,后称“元宵” ,生意人还美其名曰“元宝” 。
元宵以白糖、玫瑰、芝麻、豆沙、黄桂、核桃仁、果仁、枣泥等为馅,用糯米粉包成圆形,可荤可素,风味各异。
可汤煮、油炸、蒸食,有团圆美满之意。
陕西的汤圆不是包的,而是在糯米粉中"滚"成的,或煮司或油炸,热热火火,团团圆圆。
注釈:”团圆tuányuán ” には、(離散した肉親や夫婦が)再会する,いっしょになる,長期の離散の後に再会するという意味と
円形の、丸形の、という意味があります。
歴史的な伝説
元宵節の風習の成立については、さまざまな説がありますが、一般的には漢の時代にひな形が形成されたと考えられています。
記録によれば、漢の武帝の時代、漢族は「太一」という神を祀っていました。
「太一」は当時をときめく、五帝より上位の著名な神で、漢の皇帝に利益を与えたので、より盛大に祀られていました。
关于元宵节习俗的形成,说法颇多,但一般变为在汉代就初具雏形。
史载汉武帝的时候,汉室要祭祀一位叫“太一”的神明。
据称“太一”是当时相当显赫的一位神明,地位在五帝之上,并有恩于汉帝,所以受到的奉祀比较隆盛。
伝説によると、漢の武帝の時代に「元宵」という名の宮廷女官が、長年宮中に閉じ込められ、両親を思っては毎日泣いて暮らしていました。
大臣の東方朔は彼女を助けようと思い、玉皇大帝(中国道教における事実上の最高神)が正月15日に長安を焼くよう火の神に命じたと、漢の武帝に嘘をつき、その災難から逃れるには正月15日に「元宵」女官に、火の神が好む団子をたくさん作らせ、臣下に提灯を立てさせて出すしかないと言いました。
漢の武帝はそれを聞き入れ、「元宵」はついに家族に会うことができ、それ以来、元宵節を祝うようになりました。
相传汉武帝时宫中有一位宫女,名叫“元宵”,长年幽于宫中,思念父母,终日以泪洗面。
大臣东方朔决心帮助她,于是对汉武帝谎称,火神奉玉帝之命于正月十五火烧长安,要逃过劫难,唯一的办法是让“元宵姑娘”在正月十五这天做很多火神爱吃的汤圆,并由全体臣民张灯供奉。
汉武帝准奏,“元宵”姑娘终于见到家人。此后,便形成了元宵节。
元宵節の起源について、民間には面白い言い伝えがあります。
元宵節の起源は、春秋時代の楚の昭王と伝えられています。
ある正月十五日、楚の昭王が長江を通りかかると、川の水面に外が白くて中が赤い甘くておいしそうな食べ物が浮かんでいるのが見えました。
楚の昭王が孔子にこれは何かと教えを乞うと、「これは王のもとにもたらされた吉祥です」と言われました。
この日が正月15日であったため、この日が来るたびに、昭王は部下に命じて麺でこの果物を模し、サンザシで作った赤い餡で煮て食べました。これが現在の元宵節の原型となったそうです。
それ以来、元宵節に元宵を食べるのが伝統になりました。
关于元宵节吃元宵的来历,民间还有种有趣的传说。
相传:元宵起源于春秋时期的楚昭王。
某个正月十五日,楚昭王经过长江,见江面有漂浮物,为一种外白内红的甜美食物。
楚昭王请教孔子,孔子说"得之主复兴之兆"。
因为这一天正是正月十五日,以后每逢此日,昭王就命手下人用面仿制此果,并用山楂做成红色的馅煮而食之,这便是现今元宵的雏形。从此,元宵节吃元宵便成了一种传统。
元宵を食べる風習を今も大切に
旧暦の1月15日の元宵節には、北京の飲食店や菓子屋、さらには道の両脇には元宵の屋台が並び元宵が販売され、各家庭でもあつあつの湯気が立つ元宵を食べ、先祖から受け継いだ風習をとても大切にしています。
吃元宵
元宵佳节,北京的饮食、糕点铺,甚至连马路两边都设摊兜售元宵,家家户户在正月十五这天都吃碗热气腾腾的元宵,人们是多么留恋我们祖先遗留下来的风俗呀!